さっきXを見ていて、これからはAIで誰でも簡単にゲームを開発できるようになるという投稿を見た。確かにそうかもしれない。絵もAIが書けるし、プログラミングもAIが書けるし、音楽もAIが作れる。シナリオ、設計もAIがさらにできるようになるかもしれない。
なんか一見して素晴らしい未来だけど、なんかずっしりと違和感が残る。その違和感をできるだけ言語化したい。
ちなみにこの記事では明確なアンサーが出ているわけではなくて、自分の中のモヤモヤを少しでも吐き出したくて書いているわけなのでそこはご容赦を。
AIが何でも作れることへの違和感
たしかに、AIが何でも作れれば生産性が大幅にアップして収益を増やせるかもしれない。今まで人に外注してきたものが超低コストで手に入るようになるかもしれない。一部はもうなってるよね。
でも、違和感を感じる。違和感を感じている人は多いんじゃないかとも思う。
その違和感の正体を言葉としてひねり出してみる。
- 作品への愛情が薄れる
- 作品が売れても、喜びはない
- ひとつひとつの作品の価値が薄れる
- 作る過程で得られる楽しさを失う
- 結局、お金以外のメリットはなに?
作品への愛情が薄れる
もちろん僕もAIを使って画像なり文章なりを作ってみたことはある。ChatGPTや、Stable Diffusionを使ったりして。
で、思ったことは、それらの作品に対して作者であるはずの自分に愛情が一切湧いてこない。今まで僕は1,000本以上の記事を書いたり、または安くはないお金を払って人に書いてもらったりしてきた。やっぱり自分で書いた記事がいちばん好きだし、読み返した時にも愛情を感じる。
でも、自分で書いたわけでもなく、コストをかけたわけでもないAIで作ったブログ記事には一切の愛情が湧かない。
どんな内容について、どれくらいの文字数の記事を書いたのかすら覚えていない。
当たり前と言えば当たり前かもしれない。自分で書いてないのだから。AIがたった数秒で書き上げた文章であって、それを数回読んで微調整しただけなんだから。その記事に対する思い入れは一切生まれない。
これが実際にAIで作品を作ってみて感じた違和感のひとつ。
作品が売れても、喜びはない
Stable Diffusionを使って画像を作り、売ってみたこともある。ポツポツ売れて、結果1万円くらいの収入にはなった。でも、なんだか喜びはなかった。お!とは思うけど、それで終わり。
自分で生み出した作品が売れたわけではないし、ただ臨時収入が入っただけの感覚。臨時収入が入ることには確かに嬉しさはあったけど、一瞬で消え去る嬉しさだった。AIで作った画像が売れて得た1万円よりも、何年も前に初めてブログ記事が読まれて得た11円のほうが数百倍嬉しかった。
ひとつひとつの作品の価値が薄れる
誰でもコストなく作品を生み出せるということは、そのひとつひとつの価値は当然薄くなる。だって作品がありふれるから。
単純に数が増えて価値が薄れるというのもあるし、AIを使っていない作品の価値も薄れるかもしれない。その作品がAIを使っていないということは作者本人にしかわからないから。絵を描ける人、プログラミングできる人、音楽を作れる人は貴重だから価値が高かった。
でも、誰でも作れるようになる。
こう聞くだけでも確実に価値が下がってしまうことは想像できる。
もちろん、そのアーティストに対して心からファンである人から見た価値は薄れないだろうし、もしかしたら逆に強まるかもしれない。
でも全体から見た価値は落ちるような気がする。
作る過程で得られる楽しさを失う
クリエイターとしてはここが最も大きなポイントになりそうだけど、AIを使って作る工程をすっ飛ばすとその工程で得られた体験、楽しさもすっ飛ばすことになる。つまり、体験できない。失う。
その工程が楽しいのであればAIを使わずに自分でやればいい、というのはその通りなんだけど、AIの普及によって作品がとんでもないペースで生み出される中で時間をかけて作品を作り続けられる人はどれだけいるだろうか?
そのクリエイターにとって作品作りが大切な収入源であればあるほど焦りが生まれるだろう。
自分もAIを活用してもっと生産的に、時代に遅れないようにしなければならないのではないか、と思わずにはいられなくなってしまうだろう。
そうすればするほど、作る過程で得られる体験を失うことになる。
結局、お金以外のメリットはなに?
結局、低コストで素材が手に入るとか、生産性が高まって収益が増えるとか、そういうお金のメリットはあるかもしれないけどその他はなに?って思う。
お金のメリットは大事だよ。それはそうだと思う。
でも、なんだかな~という気持ちが残り続ける。それって楽しいのかなとか、満たされるのかなとか、違和感は残るよね。
お金を抜きに「やりたいことはやる」と決めることが大切
仮に自分の得意で楽しいと感じる領域がAIの得意なことであったとしても、やりたいんだから自分がやる、と決めることが大切かなと思った。お金を得ることを重要視しすぎるとどうしても効率化だったり生産性という言葉が頭をよぎり、楽しい部分もAIにやらせたくなってしまう。
でも、それをやっちゃうと幸せじゃないと思うんだよね。
AIは作品を作ることができたとしても、それを作る過程の楽しさは提供してくれない。
それをやりたいから。過程を楽しみたいから。自分で作るという体験を心が求めているから。そう感じるものはAIに渡してはいけない。心の底から観たかった映画を友達に「代わりに見ておいて」とは言わないよね。それと同じ。
AIを使ったほうが稼げるとか、時代に取り残されるとか、そういう損得を考えると幸せを失う。
上では作品の価値が薄まるとかって書いているけど、それもなんだか損得を考えているから出た言葉だね。
やりたいからAIに渡さずに自分でやる。それでいいんだと思う。